東アジアのドラマと、演劇性への寛容

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東アジアのドラマと、演劇性への寛容

西洋のドラマが新しい場所に着くと、画面の下に白い文字が置かれる。江家屋敷、北京、1842年。 情報は手渡され、すぐに消える。場所そのものは何も言わない。背景であって、芝居に加わることはない。

西洋のドラマのなかで、場所を告げるためだけに置かれた演劇的な標識といえば、車で町に入るときに映る道路標識か、空港で一瞬映る出発案内板くらいしかない。どちらも現実の世界にたまたまあるものであって、意味を宣言するために据えられた物ではない。そして現代の西洋の都市で、そこに哲学が刻まれることはまずない。刻まれるのは住所だけだ。西洋の監督が画面そのものでもっと意識的に演劇的なことをやろうとするとき——タイトル文字で、場面転換で、構図であることを誇示する構図で——それは特定の、自意識的な系譜に属することになる。Wes Anderson の左右対称の画面、手書きのタイトルカード、ミニチュアのセットによる転換は、ひと目で彼のものと分かるし、まさにその個人的な癖ゆえに称賛される。風変わりだとか漫画っぽいとか言われもする。生真面目な西洋のドラマ作品——プレステージ・シリーズ、真剣な文芸作品の映像化——は、演劇的な自意識を、避けるべきものとして扱う。枠は見えてはならない。文法はリアリズムであり、文法は姿を見せてはならない。

中国の時代劇は、まったく別の前提から出発する。

扉の上の扁額

中国の伝統的な家屋では、どの部屋も正面の壁の高いところに横長の木の額を掲げ、そこに大きな文字が数文字刻まれている。扁額 はその空間を名指すか、その空間が体現しようとするものを名指す。静かに徳を修めよ。簡素と雅を求めよ。源を忘れるな。 これらは西洋的な意味での標識ではない——知らない人に向けた案内ではない——その下で営まれる生のための、倫理の額縁である。紫禁城はこれで埋め尽くされている。『紅楼夢』はこれを描いている。中国の室内は、自分が何であり何を目指すのかを、こうして宣言する。扁額はその一部だ。この伝統は映画の発明ではない。建築である。

中国のドラマは、それをそのまま映画の手法として使う。宋代の都をモデルにした架空の都を舞台とする2024年の復讐劇『墨雨雲間』では、扁額 が全篇にわたって現れ、一度に二つの仕事をしている。一つ目は場所を告げること。ただしテロップとしてではなく、重みを伴って手渡される。人物が到着するのに合わせてカメラが門の扁額を仰ぎ、場所と、それが誰の場所であるかと、それが何を掲げているかとを、カットを割らない一つのショットで同時に与える。二つ目は、その場面への一言だ。場面が閉じるとき——たくらみが動き出し、ひと芝居がうまく運び、静かな残酷さが決まったとき——カメラは頭上の文字に落ち着く。正直を尊べ。隠し立てなく行え。 この並置が場面の最後の一拍であり、それを担うのは台詞ではなく建築である。部屋は人物を裁いているのではない。規範がそうであるように、ただそこにあり続けているだけだ——その下でたった今起きたことに対して、静かで、決着のつかない関係のまま。ギリシア悲劇のコロスの仕事を、木と漆が文字どおり引き受けている。これをやっているのはタイトルカードではない。世界のほうであり、世界がそのように建てられているからだ。

同じ部屋のなかの記憶

演劇的な文法が姿を見せるのは、そこだけではない。西洋のドラマの回想は、基本的に人を移動させる。暗転し、別の場所と時間へ切り替わり、いまを離れて過去に入ったことをはっきり合図する。『墨雨雲間』では、過去はしばしば現在と同じ部屋に現れる。カメラがわずかにずれ、光の調子が変わり、いま人物が立っているその空間に、半ば陰に沈んだ小さな再演として記憶がほどけていく。過去と現在が舞台を分け合う。演劇が記憶を扱うやり方そのものであり、記憶が実際に働くやり方にも近い——どこか別の場所に仕舞われているのではなく、それを思い出しているこの部屋に居合わせている。

同じプロデューサーによる2026年のドラマ『Ashes to Crown』は、別の手を使う。回想の過去を白黒で描き、思い出している人物が見つめている当の相手だけを、元の色のまま残すのだ。記憶の残りは灰色へ抜けていき、その記憶が何についてのものなのか——その顔、あるいはその物——だけが色を持ち続ける。思い出すという作業が頭のなかで見えないままやっていることを、この技法は表に出す。過去を中立に再生しているのではなく、まだ熱を持っている一つのものを過去のなかに探しているのだ、ということを。

場面転換も同じ演劇の論理に従う。『墨雨雲間』では、会話が終わり、カメラが一つの顔に留まり、フレームが取り直されたときには相手が別の人物に入れ替わっている——カットを割らずに時間と空間が動いており、劇は編集された映画の時間ではなく、途切れない演劇の時間として進んでいく。別の箇所では、屋内を移っていく人物をカメラが距離を置いて追い、引き戸の半透明な紙がレンズと被写体のあいだを何度も横切る——隠し、あらわし、また隠す。天候は感情に付き添う。喪失の瞬間に雨が落ち、対決が極まるときに雪が降りてくる。武侠の殺陣は、戦いを様式化された舞に近づける。敵同士が互いの軌道を抜けていく、その空間の文法は、戦術上の位置取りと同じだけ内面を語っている。そして衣裳——西洋の批評が見世物へ切り縮めがちな、もう一つの層——は、これらのドラマでは演劇の記号として働く。手が込んでいて、意図的で、色とシルエットによって社会的な地位と、感情の状態と、物語のなかでの変化とを伝える。その点で、人が実際に着るであろう服よりも、舞台衣裳に近い。

ドラマの世界は、物語を収めるための中立な容れ物ではない。意味を表面にまとっている。

その寛容はどこから来るのか

同じ文法は画面の外にも続いている。東アジアの社会——中国、日本、韓国、ベトナム——は、西洋の社会がもう持っていないほどに、日常のなかで演劇として働く、手の込んだ作法の体系を保ってきた。軽い会釈から深い礼までの幅を持つお辞儀は、関係と上下を身体の精度で測っている。王侯の前や祖先の廟で額を地につける叩頭は、もっとも文字どおりの意味での身体の演劇だ。中国の会食では、卓の相手に茶や白酒(パイチュウ)を注ぐ順番は自由ではない。上下がそのまま所作になる。韓国の食卓では、年少の者は年長の者より先に食べも飲みもしない。どれも文法のある上演であり、社会的な意味を身体で目に見えるものにするための手順だ。そしてそれらは——形を変えながら、場面によって守られる度合いに差はあれ、それでも——近代化を通り抜けて残った。西洋ではおおむね残らなかったやり方で。門ごとに皇帝の到着を告げる宮廷の先触れは歴史の遺物だが、そこに表れている本能はそうではない。

西洋の文化にも固有の形式の伝統はあるが、この二世紀の産業化と実利優先の組み替えが、それをより徹底して削り取った。生き残った形式は、儀礼としての例外——結婚式、卒業式、国家的な式典——か、近代がおおむね居心地の悪いものにしてしまった古い階級構造の名残か、そのどちらかであることが多い。土台にあるのはくだけていることだ。初対面から下の名前で呼び、服装は崩すのが普通で、感情を率直に出すことが本物である証と見なされる。形式は、硬さ、演技、本物でないことと結びつけられる。自然であることと本当であることは、同じ一つのことだと前提されている。

もっとも分かりやすい例としての顔

それがいちばん見やすいのは化粧だ。主流の西洋の化粧は、建前としては自然を目指す——その顔がすでに持っているものを、より良く見せたものである。この十年の西洋の美を支配してきた日焼け調のコントゥアリングは、太陽と影が顔に対して自然にやっていることを誇張する。狙いは、ずっとこういう顔だったように見える顔だ。演劇性はたしかにある——コントゥアリングはさりげない技法ではない——が、それは作り上げた自然さのために働く演劇性だ。

東アジアの化粧、とりわけ中国の化粧は、この狙いを共有していないし、共有するふりもしない。ファンデーションは下にある実際の肌より数トーン、ときにはそれ以上に白く置かれる。自然主義のためではなく、特定の効果——その下の顔が持っていない磁器の表面——を作るためだ。首やデコルテはしばしば地の色のまま残される。だから出来上がるのは顔を中心に据えた仮面で、それを隠しも、言い訳もしない。厚みも層も見て取れるし、誰もそうでないふりをしていない。化粧が見えていることは、この語法の一部なのだ。

そのなかで、色や差し色はむしろ西洋のそれより抑えめなことが多い——コントゥアは控えめで、目もとはスモーキーではなく精密だ——が、全体の効果はやはり紛れもなく作り物である。エギョサル(中国語では臥蚕、文字どおり「目の下の蚕」、日本語の涙袋)——生まれつきか、化粧で強調したか、影とラメでまるごと描き起こしたか。いずれにせよ、この目の下の小さなふくらみが、顔に人形めいた明るさを足す。チークは頬だけでなく、鼻先や顎にも置かれることがある。舞台のために化粧をした人間に見える。事実、そうなのだ。中国の映像用の化粧はカメラのために設計され、強い照明の下でも崩れないように作られ、顔そのものを一つの枠として扱い、そして悪びれずに演劇的だ。画面の外の自然さを画面の上でまねようと懸命になる西洋の映画用の化粧は、そうではない。

対象ではなく、レンズの問題

以上のどれをとっても、東アジアの文化がより表層的だということにはならないし、この語をちゃんと使うかぎり、より演技的だということにもならない。そこにあるのは、目に見えるものを美しく整えることへの、より高い許容度である——形式的なもの、作られたもの、様式化されたものを、本物であることの失敗ではなく、意味のまっとうな語法として扱うことへの許容度だ。お辞儀が何かを意味するのは、まさにそれが形式だからであり、双方がそれを形式と知ったうえでなお行うからだ。扉の上の扁額が何かを意味するのは、誰かが言葉を選び、入る者全員の目に入る場所に掲げたからだ。悲しみの場面で落ちてくる雨は、偶然のふりをしていない。

このすべてを過剰と読む西洋批評の反射的な身ぶり——メロドラマだ、様式に溺れている、洗練を欠いた映画作りのしるしだ——は、中立な美学の立場ではない。それは、自然主義だけが真剣な文法であると決めた文化の立場であり、それ以来ずっと、そのレンズを通してほかのすべてを見てきた文化の立場である。