maxxing への反論
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maxxing はインターネットのもっとも暗い界隈から始まった。looksmaxxing という語は2015年ごろ、インセルの掲示板で生まれている。外見の魅力を体系的に最大化するための枠組みで、土台にあるのは、人間の価値は数値であり、その数値は最適化できるというブラックピルの前提だ。そこから接尾辞が広がっていった。gymmaxxing、moneymaxxing、statusmaxxing、sleepmaxxing。2020年代の初めには TikTok に上陸し、元のイデオロギーを剥ぎ取られ、中立的な、むしろ憧れを誘うものとして包み直されて、主流の自己啓発文化のなかへ溶けていった。
その一切に加わっていなくても、同じ論理で動いていることはある。最適化の衝動はこのミームよりずっと古く、このサブカルチャーよりずっと広い。私は典型的な looksmaxxer ではない。背は高く、中性的で、美しいものや思索的なものに自然と引き寄せられるが、その引かれ方は骨格の順位づけとは何の関係もない。それでも私は、ずっと美に取り憑かれてきた。能力にも、影響力にも、そのすべてを漸近的な理想へ向けて磨き上げることにも、同じように取り憑かれてきた。ラベルは私のものではなかった。構造のほうは、私のものだった。
なぜ効くのか
maxxing が人を惹きつけるのには、虚栄心とは無関係の、はっきりした理由がある。最適化問題としての人生には、互いに絡み合う変数が多すぎるうえ、その見返りは曖昧で、遅く、測れない。maxxing はそのすべてを一つに畳み込む。うまくやるべきことが、突然ひとつになる——勝っているかどうかを教えてくれる指標が、ひとつだけになる。フィードバックループは締まり、人生をどう使うのかという漠然とした不安は、単一の明快な目標へ絞り込まれる。本当に不確かな世界では、それは途方もない救いだ。
愚かな反応ではない。ただ、解いている問題が違うだけだ。
目を開かせたもの
それを直視させたのは AI だった。仕事を人生の中心に据えるべきなのかという疑いの出どころとしては、皮肉な話だ。変化があまりに速くて、検討もしないまま回していた前提がいくつも見えてきた。大きなイグジットは特定の暮らし方に結びつく。高い評価額はいずれ現金になる。その果てでは富と充足が正の相関を持つ。その果てにいる人たちを見ても、どれについても証拠はほとんど見つからない。イグジットが片づいたところで、人は探すのをやめない。
予算を組んでみたこともある。自分が本当に望む暮らしにいくらかかるのかを、文字どおり計算した。出てきた数字は、私が最適化の目標にしてきた額より大幅に——ほとんど気恥ずかしくなるほど——小さかった。一度も問い直されないままのその幻の目標が、何年分もの最適化を駆り立てていたわけだ。
創業者の道が実際に払わせるもの
創業者の道がいちばん分かりやすい例だ。それが実際に何を払わせるのかを知るのに、時価総額一兆ドルの会社の CEO になる必要はない。ただ、たいていの人は知りたがらないか、別の衝動——自尊心、承認欲求——を抱えていて、それが最後まで気づかせない。ずれのほうは早い段階でやってくる。事業の本気度にもよるが、プレシード、シード、シリーズ A のうちにはもう、社内政治にも、ごますりにも、ステークホルダーの管理にも深く沈んでいる——建前としては、そのすべてから逃れるために創業者になったはずなのに。しかもそれは積み上がる一方だ。その先に確約されたイグジットがあるわけでもない。
私が価値を置くのは、作ること、プロダクトに本当の影響を与えること、くだらない茶番抜きで動けること、個人としての自由とプライバシーを保つことだ。それらを届けてくれるはずの道は、ほとんどすぐにそれらを剥がしにかかり、そのまま二度と止まらない。自分には要らないと確かめ終えた数字のために、そこを差し出す気はない。船なら借りればいい。
そのおかげで、もっと普通の道への本物の敬意が、あらためて自分のなかに戻ってきた。手触りのある商売、カフェ、まっとうな商い、そして本当の心配りと意志をもって取り組む普通の勤めにも、同じ敬意を感じる。何も考えないサラリーマン生活のことではない。情熱と、作るものの質を決めるのは自分であって、肩書きでも、そこに貼りついた maxxing 風の味つけでもない。
採点表はない
本当の欠陥は、人生には複数の指標があってひとつを最適化すれば他が犠牲になる、ということではない——それも事実ではあるが。問題はさらに先にある。採点表そのものがない。正しい金額はない。正しい暮らし方もない。人生の正しいテンプレートもない。ごく一般的で、誰にでも当てはまる前提——健康であること、親切であること、そこそこ幸福であること——から先は、全部、自分だけの話になる。何を望むか、何に意味を見いだすか、どんな旅路を歩みたいか。
その言い方ですら、少しずれている。望んだ結果と、それが手に入るかどうかも、話の全部ではないからだ。望んだものが手に入らなかったことが、もっといいものをくれることもある。しかもそれが分かるのは何年も後のことで、最後まで分からずじまいのこともある。もう一方の道が何をもたらしたはずなのかは、先を見ても測れないし、振り返っても測れない。
知らない国に長く滞在するとき、正しい旅程というものはない。たっぷりの予算と最高のホテルが、いちばん面白い経験を保証しはしない。切り詰めた自転車の旅も保証しない。あるのは、実際にたどった旅だけだ。
だからといって何もかもを放り出す理由にはならない。私は自分の好きなものを知っていて、それを追う。結果のためだけではなく、その過程そのものに値打ちがあると思うからだ。だが、maxxing という枠組みを疑う理由にはなる。人生とはまず何より最適化問題であって、正しい指標さえ見つければ、あとはありったけの力でそれを引き上げればいい——その前提こそが疑わしい。人生はそういうものではない。はじめからそうではなかった。