言語が言わせること

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言語が言わせること

マドリードのあるアカウントが、音楽フェスのリールを上げていた。現場から戻ってきた二人のレポーターが、カメラに向かってフェスを振り返ってみせる、という映像だ。最後まで見ていられなかった。語彙ではない——発音だ。語が終わる前に切れ、真ん中から子音が抜け落ち、語尾は飲み込まれる。スペイン語を学んでいる人が聞けば、言語障害に聞こえるだろう。

もちろん障害ではない。そこに現れる特徴はどれも規則的で予測可能で、その気になれば一秒後には標準形を出せる何百万もの人々に共有されている。選択なのだ。

しばらく前から、私は別の方角——吹き替え——からこの問題のまわりを回っていた。スペイン語の吹き替えは発音が過剰だ。遅く、低く、子音を一つ残らず着地させる。子どもに何かを説明する教師の話し方である。中国語の吹き替えは、演じる役がチンピラであっても優雅さを崩さない。韓国語は、生意気から高圧的、拗ねた甘えまでを走り抜けて、それでいて敬語の体系から一歩も出ない。日本語は社会的な類型ごとに語り口を持っていて、ギアを入れ替えるようにそのあいだを移る。どれも恣意的ではないし、どれも吹き替えだけの話でもない。ドラマでも同じであり、街でも同じだ。

仕組みは、人が言うほど込み入ってはいない。言語は、考えられることを狭めはしない。決めるのは、何を必ず言わせるか、何を言うのが安く何が高くつくか、口を開いたときの既定の一手は何か、である。それを一日に四百回、三十年続ければ、もう文法ではない。注意の習慣であり、人格とは注意の習慣でできている。

文法が計算させるもの

韓国語と日本語は、丁寧さに傾いているのではない。丁寧さをコンパイルしている。韓国語では、聞き手が自分に対してどこに位置するかを決めないかぎり、一文を終えることができない。その決定を語尾が担っており、逃げ込める中立の設定が存在しないからだ。日本語も敬語の体系で同じ仕事をしている。この選択は、飛ばすことができない。

そして環が閉じる。文化がこの体系を作り、いまでは体系のほうが、それを習得する子ども全員に、その後の生涯に話すすべての文において、上下の絶え間ない計算を叩き込んでいく——誰が上で、誰が下で、どれだけ離れていて、それが動詞の末尾でいくらの支払いになるのか。韓国語を話して育ちながら、序列に無頓着なままでいることはできない。文法が固まった時点の文化がどうであったにせよ、いまでは文法のほうが、それに合う話者を作り出している。世代から世代へ、誰も意図して教えることなく。

この現象のもっとも鋭い形は、そもそも身分の話ですらない。トルコ語、ケチュア語、トゥユカ語は証拠性を文法化している。主張していることをどうやって知ったのかを、動詞が標示しなければならない。自分で見たのか、誰かから聞いたのか、痕跡から推論したのか。トゥユカ語では、彼は薪を割った と言うのに、それを自分の目で見ていたのか、隣の谷から斧の音を聞いたのか、割られた丸太を見つけたのか、いとこから聞いたのかを同時に言わずに済ませることができない。無標の形は存在しない。この言語の話者は、自分の主張を証拠の種類で仕分ける作業に生涯を費やす。そうするまで、文法が文を外へ出してくれないからだ。スペイン語ではそれは任意になる。英語では、急いでいるときにはいつでも省いてよい文体上の飾りになる。

三つの言語、曖昧なままにしておくことを許されない三つの異なるもの。上下関係、証拠、そして——スペイン語の場合は——ほとんど何もない。

tú と usted(親称と敬称)は二択のスイッチでしかないし、国の半分ではとうに usted が静かに引退している。義務的な足場はない。話し始める前に聞き手を位置づけよと迫る語尾もない。だから語り口の幅は、そのつど、その場で即興される——声の調子と語の選択と、どこまで律儀に発音する気があるかによって。カスティーリャのスペイン語に私が聞き取る不安定さ——一文のうちに格式ばった接続法から下品な罵りまで振れること——は、どこからともなく現れた気質ではない。仕事を丸ごと上演に委ね、掴まるものを何も与えない言語は、こう響くのである。

韓国語の生意気さと韓国語の丁寧さが衝突しない理由も同じだ。あちらでは敬意は口調ではなく接尾辞であり、形態論の側で片がついてしまえば、態度はその上に乗るだけになる。四秒のあいだに刺々しくなり、猫撫で声になり、激昂し、あからさまに甘えてみせて、しかもその全体を通して完璧に丁寧な話者ができあがる。丁寧さは、文が始まる前に決着していたからだ。中国語の優雅な傲慢さも、同じ仕掛けの別型で動いている。

様態と経路

私の知るかぎりもっとも明快な事例は、英語とスペイン語のあいだにある。「英語のほうが表現が多い」と言われるとき、人が半分だけ気づいているのがこれだ。

英語は Talmy の言う衛星枠づけ言語である。動詞が様態を担い、不変化詞が方向を担う。run out(走って出る)、stumble across(つまずくように行き当たる)、wander off(ふらふらと離れていく)、slip past(するりと通り過ぎる)、storm in(荒々しく踏み込む)。スペイン語は動詞枠づけ言語だ——方向を担うのは動詞のほうで、salir(出る)、entrar(入る)、cruzar(渡る)、subir(上がる)、そして様態は副詞句へ押し出されるか、落とされる。

珍奇な豆知識ではない。何が語られるかを変えてしまう。Slobin は何年もこの件で語りの実験を重ねた。同じ絵本を渡すと、英語話者はほぼ毎回、人物がどのように動いたかを述べる。スペイン語話者は動いたという事実を述べ、どのようにかは多くの場合落とす。その情報が彼らに使えないわけではない。高くつく——節をもう一つ要する——から省かれるのだ。そして節約された語はどこかへ行く。スペイン語の語りはそれを静的な描写に費やす。部屋、光、物事の状態に。英語は様態が濃い。スペイン語は情景が濃い。

だから、英語は何にでも専用の語があり、スペイン語は説明が多い、という直感は当たっている。そしてそれは、スペイン語が貧しいという話ではない。スペイン語は比喩表現なら腐るほど持っている。欠けているのは、様態を放り込める安い枠のほうである。

注意の習慣、と私が言うのはこのことだ。男がどんなふうに部屋へ入ってきたかに気づくことを、誰も妨げられてはいない。ただ一方の言語ではそれに触れるのが無料で、もう一方では節ひとつぶんの料金がかかる。話者一億人と、数世紀ぶんの小説にわたって積み上がれば、その価格差はやがて物語の語り方になる。

四つの文字と、ひとつの物語

漢字は絵ではない。この文字についてもっとも古い俗説であり、あっけなく崩れる。圧倒的多数は形声文字であって、一方の部分が意味を、もう一方が音を指し示している。誰も象形文字を読んではいない。

本当に効いているのは文字より上流、書き言葉としての中国語が何でできているか、のほうにある。それを動かしているのは成語だ。四文字の定型句で、現役で流通しているものが数千あり、その多くが物語まるごとを四音節に圧縮している。守株待兎——切り株を守って兎を待つ。ある農夫が、兎が切り株にぶつかって首を折るのを目にし、畑を捨て、残りの生涯を、次の一匹を待って切り株のそばで過ごす。四文字で、幸運がもう一度来ると当て込む相手を愚か者呼ばわりしたことになる。使うには物語を知っていなければならない。受け取るほうも同じである。

人がそれと気づいて漠然と「象徴的」と呼ぶものの正体が、これだ。圧縮された引用を標準の道具とする弁論文化は、構造からしてすでに高コンテクストである。四文字を口にして、解くのは相手に任せる。全部を言葉にして説明するほうが有標の選択であり、それは「あなたには分からないと思う」と告げることになる。あちらでは婉曲は性格の特徴ではない。引喩を安く、明示をわずかに失礼にした言語における、効率のよい一手なのだ。

中国語はまた、ほとんど何よりも情報が濃い。しかも計測できる。言語は二つの軸のあいだでトレードオフを抱えている。一秒あたり何音節を撃ち出すか、そして一音節がどれだけの情報を運ぶか。中国語は一方の端にいる——重い音節を、ゆっくり届ける。スペイン語と日本語は反対の端にいる——軽い音節を、慣れていない耳には機関銃に聞こえる速さで届ける。二つを掛け合わせると、誰もがおおよそ同じところ、毎秒四十ビットあたりに着地する。まるで、誰も超えることを許されない通信路容量があるかのように。中国語の話者とスペイン語の話者は、口でまったく違うことをしながら、ほぼ同じ速度で送信している。そして中国語の一音節は、スペイン語の数音節ぶんの値打ちを持つ。

これは帰結を伴う事実であり、マドリードのところでまた取り上げる。

身体の側に残る痕跡すらある。中国語を読むことは、表音文字を読むときには動員されない視空間的な機構を使う。文字から音を組み立てるのではなく、形を同定しているからだ。それが読むという行為の外側まで何かを変えるのかどうかは、決着していない。弁論の習慣のほうは、まったく決着済みだ——教養ある中国語話者が二人で議論するのを見れば、それが働いているのが見える。

日本の声優に競争相手がいない理由

日本の声優は世界で最も優れており、しかも僅差ですらない。「アニメをたくさん作っているから」は理由ではなく結果であって、本当の理由はアニメが存在する三百年前から始まっている。

人形浄瑠璃、すなわち文楽は、人形一体に三人の遣い手を付け、脇にもう一人、義太夫節を語る太夫を置く。この一人が、劇中のすべての人物を声で演じる。全員をだ。老人も、若い女も、悪役も、子どもも、加えて地の語りも、加えて誰も喋っていない場面の感情の天候までも。それを座ったまま、観客の目の前で、扮装もなく、隠れる場所もなくやる。声優という職業の定義そのものが、1680年代の大坂で書かれている。

落語はそれをさらに削ぎ落とす。座布団の上に噺家が一人、滑稽な物語の登場人物すべてを演じ、声の高さと声質と首の振りだけで人物を切り替える。小道具は扇子と手拭いだけで、しかもそれが代わりを務めるのは物であって人ではない。ここでも同じだ。演者は一人、配役は全員、視覚に頼れるものは何もない。

つまり日本は、一つの声が多くの人物を生むことを、名人と系譜と流派と、金を払う客を伴う真剣な芸として、何世紀にもわたって扱ってきた。これに相当するものを持つ場所は、ほかにほとんどない。西洋でいちばん近いのはラジオだが、たかだか八十年の歴史であり、しかも一度も高い格を得たことがない。

もう半分は歌舞伎が供給する。大仰な様式である荒事は、英雄の台詞を、昼飯を注文するのに使った人間が一人もいないような様式化された咆哮で放つ。それは気恥ずかしいものではない——客はそれを見るために切符を買っている。日本では、声の極端な誇張は下手な役者のすることではない。名前と歴史と、正しい遣り方を持つ技法である。西洋の役者がそこまで大きく演じれば臭い芝居と言われ、歌舞伎の役者がそこまで大きく演じれば、それは正しくやっていることになる。何を趣味がよいと見なすかというこの一点の差が、その下流すべての天井を決めている。

そこへ二十世紀が基盤を足す。1920年代から50年代にかけてのラジオドラマは、テレビが誰かに顔を与えるより前に、声としてのみ存在する演者の実働層を作り出した。アニメが規模を得たとき、職業のほうはすでにそこで待っていた。いまでは専門学校を持ち、専属の事務所を持ち、声優がアルバムを出しコンサートホールを埋めるアイドル的なスターシステムまで備えた産業である。人は十八歳で、職業として意図的にそこへ入る。舞台俳優が公演の合間に金のためにやる仕事ではない——ほかのほとんどの国で、吹き替えとはまさにそれなのだが。

そして言語のほうが、あらゆる水準で協力する。日本語は高低アクセントの言語なので、抑揚の帯域はほとんど人物造形のために空いている——声を跳ね上げても、割っても、一オクターブ落としても、息を混ぜても、語そのものが危うくならない。役割語は、演者が一つも選択をしないうちから仕様書を手渡す。終助詞と一人称が、高慢なお嬢様を、無愛想な老人を、田舎者を、すでに符号化している。つまり台本のほうが、社会的な類型を文字の側で宣言している。敬語の体系は、その場面の全員に対する人物の正確な位置を、一行ごとの文法に書き込んでしまう。日本語の台本を読む役者は、英語の台本を読む役者より多くの情報を、この人物が誰であるかについて、動機の話を誰かが始めるより前の段階で渡されている。

積み上げてみる。一人で多くの声を担う上演を高級な芸としてきた三百年、声の極端さを罰する代わりに報いる演劇の伝統、媒体より先に存在した声だけの職業、分業が成り立つほど大きな産業、そして音高を自由に残しながら役柄と上下を文字の側に書き込む言語。この部品を揃えている場所は、ほかにない。

マドリードがああ聞こえる理由

リールに戻る。

私が聞いていたのは子音弱化(レニション)であり、しかも具体的だ。母音間の /d/ が脱落して cansado(疲れた)は cansao になり、pescado(魚)は pescao になる。音節末の /s/ は気息音まで弱まるか、まるごと消える。mosca(蠅)が mohca、あるいはただの moca になる。強勢のない音節は、ほとんど時間を占めなくなるまで圧し潰される。数世紀をかけてアンダルシアのスペイン語と、カリブ海のスペイン語のほとんどを作り出したのと同じ系統の過程——弱い位置で子音が弱まること——である。それが私に壊れて聞こえるのは、標準の調音の明晰さを基準に解析しているからで、音節末を落とせば音響上の冗長性は実際に減る。話者たちは的を外しているのではない。避けているのだ。

そしてスペイン語には、それを許す余裕がある。音節はひとつひとつが安い——情報量が少なく、速く撃ち出され、燃やしてよい冗長性がある——からこそ、cansado から d を抜き、複数形の末尾から s をすべて削っても、全速力のまま通じる。中国語にはこれができない。あちらでは音節のひとつひとつが声調と濃い意味の荷を運んでおり、一つ崩せば、失うのは体裁ではなく語そのものだ。スペイン語が磨り減るのは、磨り減るだけの余白があるからである。どちらの方向へ磨り減るかを決めるのは、政治だ。

そして、彼らは教養があるように聞こえるのを恐れているらしい、というあの感触が、まさにそのとおりだったということになる。

スペインの若者文化において、pijo(金持ちの気取り屋)は貼られうるレッテルのうち最も高くつくものの一つだ。明瞭に、格式ばって、標準カスティーリャ語で話すことは、中立な能力としては読まれない。階級の標として読まれる——金と制度、そしてその両方に楽に手が届く種類の人間との、同盟の印として。その反対側にかかる重りに Labov が与えた名が潜在的威信である。非標準の形は内集団での価値、本物であること、偽物でないことを担い、その価値が標準形の顕在的威信に勝つ。あのリールの誰も、明瞭に話すのに失敗しているのではない。明瞭さを意図して削っているのだ。それで買えるものが、値段に見合わないからである。

スペインにはこれを回す固有の原動力があり、それは Franco である。独裁は正しいカスティーリャ語を国家のイデオロギーとして強制した——正しい話し方、正しい振る舞い、正しい上下、そして良識ある人間であることの聴覚上の印としてのラジオの発音。それが終わったとき、La Movida が狙ったのは政治よりはるかに多くのものだった。lo cutre——意図された粗雑さ、安っぽさ、反・優雅——を取り上げて美学上の立場に仕立て、ついには fino(上品)に話すことが、体制のように話すことだと誰の目にも読めるようになった。この結びつきは消えなかった。きびきびしたカスティーリャ語には権威主義的な作法の残響がかすかに付き、南部訛りのざらついた話し方にはその逆が付く、という反射として定着した。五十年経ったいま、断層は子音のなかを走っている。

次に人口の動きがある。二十世紀のスペインは、アンダルシア、エストレマドゥーラ、ラ・マンチャから膨大な数の人々を、工業労働のためにマドリードへ、何十年にもわたって送り込んだ。労働者階級のマドリードは以来ずっと、ごく普通の接触によって南部の音韻を担ってきた。新しいのは移動の向きのほうだ。かつてそれらの特徴は烙印であり、移住者の子どもたちが何より必死に捨てようとしたものだった。それがいまでは、農村と何の縁もない都市の若い話者たちに、意図して採用されている。付随する意味が、どこかで「遅れている」から「本物である」へ裏返ったからだ。リールでいちばんよく見えるのは、演出されたラフさがこのジャンルの要件だからである。カメラの前で綺麗すぎると企業くさく読まれるので、ざらつきは、うっかり出るものではなく、意図して寄せていくものになる。

立派に話すことこそ良識ある人間のすることだと四十年間言われ続けた国は、その反対側にアレルギーを抱えて出てきた。そしてそのアレルギーは、それが終わったあとに生まれた人々の子音のなかにある。

ブエノスアイレスは同じものを逆向きに回している

来歴をたどれる記録が残っているのは、旋律の部分だ。リオプラテンセのスペイン語はイタリア語の抑揚——cantito、小さな歌——を帯びており、その出どころはブエノスアイレスへの南イタリアからの大量移民にまっすぐ遡る。その上に voseo(二人称に vos を使う体系)と sheísmo(ll と y をシャ行で発音すること)が乗る。人の波が到着し、街の旋律がそれに合わせて変わった。比喩は一つも入っていない。

文法もそこに輪をかける。voseo の命令形は末尾に強勢が来る——mirá(見て)、vení(来て)、escuchá(聞いて)、contame(話して)——ので、命令は真ん中ではなく最後の音節に着地する。些細なことだが、カスティーリャ語の同義形よりも指示が強く当たる。さらに lunfardo がある。港町で組み上げられ、タンゴを通じて国全体の言葉づかいへ輸出された俗語の語彙体系まるごとだ。つまり日常の語彙のなかに、たいていのスペイン語が持たない、意図的な発明の層が一枚入っている。

そしてその全部の上に、言葉の文化が乗る。ブエノスアイレスは人口あたりの精神分析家が地球上のどこよりも多い。自分について長々と語ることを、大衆的な制度にまで仕立てた街である。タンゴの歌詞は文学の語り口を持つ。カフェでの議論は規則のある娯楽だ。そこから生まれるのは、言葉の上演が地位財であり、言葉を濁すことに代償が伴う言語共同体である。報われるのが断言であれば、返ってくるのも断言であり、語り口の既定値はことごとく上へ流れて、やがて自信のほうが有標ではなく中立の設定になる。

カスティーリャの耳にはそれが誇張として読まれるし、技術的な意味ではそのとおりでもある——彼らの既定値は、私のそれより高い位置にある。イタリア語の旋律、末尾に強勢のある命令形、発明された語彙、そして百年ぶんの職業化された喋りがあれば、そうなる。

平均などというものはない

どうしても折り合いをつけられずにいることがある。スペイン語の吹き替えは、幼稚園の先生のように発音を作り込む。都市のスペイン語は、子音の半分を意図して消す。どちらもが、自分こそ中立の設定であり、誰も特別なことをしていないときのスペイン語の響きだ、という顔をしている。両方がそれであることはありえない。隣り合ってすらいない。

どちらでもないのだ。平均的なスペイン語などというものは存在しないし、はじめから存在しようがなかった。あるのは下位文化に属する下位言語の積み重なりであって、そのそれぞれが、無標の文の響きについて自前の考えを持ち、そのすべてが中心を名乗る。中心を名乗ることこそ、語り口という商売の中身だからだ。

スペインの『ドラゴンボール』は、この病の全体を九十秒のうちに収めていた。主題歌は、結婚式で酔った叔父たちがマイクを握ったときの歌い方で歌われ、その一行が視聴者を a buscar con ahínco la bola de dragón(ドラゴンボールを ahínco をもって探しに)送り出す。con ahínco。熱心に。勤勉に。精励して。書面の報告書から出てきたような語が、アニメの主題歌のなかにあり、次の音程に届く自信があるようには聞こえない男によって歌われている。姉と私は何年もあの一行を茶化した。五歳だったが、それでも、それまで聞いたうちで最も場違いな言い回しだと分かった。

そして歌が終わると、ナレーターが前回のあらすじを、教室の最後列に向けて一語ずつ発音してみせる、気取った教師の口調で語る。

素人同然の歌唱が誰も口に出さない語彙を運び、その直後に一分の隙もない調音が続く。しかもその両方が、どちらの宛先でもありえない八歳の子どもに向けられている。関わった誰も、これを奇妙だとは思わなかったらしい。私は、これを奇妙だと思うのをやめたことがない。

同じ非論理が、私の学校にも通っていた。私は大半が上流階級の子どもたちのなかにいる中流の子どもで、彼らは実際より貧しい場所の出であるかのように聞こえることに、本気で労力を割いていた。2000年代のことなので、それは一式そろって到来した。cani と choni(不良じみた、あるいは下品と見なされる若者の身なり)のスタイリング、輸入されたゲットーの図像、ヒップホップ、尻より下に穿いたズボンから下着が全部出ている——ゴムの縁が覗いているのではない、全部だ、臀部がまるごと外気に晒されている——そしてなぜか、両方の裾を靴下に押し込むか、ゴムバンドで足首を絞る。当時スペインにいた人間なら、いまでも目に浮かぶはずだ。威嚇としては役に立たなかった。衣裳としても、ごく小さくごく局所的な得点板の外では何も買えなかった。それで十分だった。一世代のほとんどにとって、完全に十分だったのである。

引っかかるのは、その誰一人として理由を知らなかったことだ。雄弁に聞こえることへの忌避には、本当の出どころがある——正しいカスティーリャ語を道徳的な品位の印にした独裁と、粗雑さを一つの立場にすることでそれに応じた対抗文化と。四十五歳より下のスペイン人は、そのどちらにもほぼ直接には触れていない。彼らが受け継いだのは、理由を抜き取られた反射だけである。

この件について私の立場は中立ではないので、書いておく。この体系は全体として社会的な含意に向けて最適化されており、美学は論じるに値しないものとして扱う。良い響きか、という問いを誰も立てていない。卓上にあるのは、これは自分を正しい位置に置くか、という問いだけだ。私のようにスノッブで、美学を先に置く人間には、それはほとんど耐えがたく、しかも、どちらかに与することでは解決しない——意図して反美的な都市の変種も要らないし、発音を作り込んだ吹き替えも要らない。どちらも醜い。互いに逆の方向へ醜く、そしてどちらも、音楽の問いが置かれるべき場所に社会の問いを立てたせいで、そこへ辿り着いた。

この件について、私は二つの見方を同時に抱えている。生きている誰にも擁護できない制約の内側で暮らすのは、苛立たしい。同時に、五十年前の政治的な論争が、いまも電話の画面のなかの見知らぬ他人の子音を走り抜けていることには、心が躍る。

通訳者を主人公にした韓国ドラマ『この愛、通訳できますか?』に、一つの台詞がある。ここまでの全部の要約がそんな場所で見つかるとは思っていなかった——言語は、人の数だけある。私が持ち帰るのは、その言い方のほうだ。平均はつねに発明品であり、ここまでに挙げたどの話し方も、誰かにとっては規則一式と得点板を備えた母語まるごとであって、美しくある義務など一切負っていない。

cansao の d を飲み込んでいる、あのリールの若者は、スペイン語に失敗しているのではない。誰も教えてくれなかった論争のなかで一方に与しており、しかも、自分にとって安くつくほうを取っている。それを何世代か続ければ、論争があったこと自体を全員が忘れる。残ったものは、国民性と呼ばれる。

美しいか、役に立つか。おそらくどちらでもない。面白く、ためになるか。それなら、あるいは。