もし選択だったら?
- 思想
- 文化

誰かが尊重される権利を擁護するための「ゲイであることは選択ではない」という議論が、私は昔から好きではない。
もし選択だったら?
私はバイセクシュアルだ。女性とだけ付き合うこともできる。そうしたくない。惹かれる気持ちを選んでいるわけではないが、誰に近づき、誰と付き合い、どんな関係を望むかは選んでいる。その選択が私のものであるのは、異性愛者の選択がその人のものであるのと、まったく同じ普通の意味でだ。
その擁護は理解できる。同性愛を悪い決断だと思う相手に、それは決断ではないと説明すれば、非難への応答にはなる。だが、もっと基本的な問いが残る。なぜ自分で選んだのなら、不当な扱いを受けても仕方がないことになるのか。
自由を擁護する側が、ほかの生き方はできなかったと証明しなければならない時点で、すでに譲りすぎている。
選択が何の関係を持つのか
私たちは、人が選ぶ多くのものを保護している。信教の自由には、宗教を変える自由も含まれる。表現の自由が、言わずにいられないことしか守らないのなら、ほとんど役に立たない。自由のかなりの部分は、他人が嫌う決断をできることにある。
親密な関係は、その原則を適用するのがとりわけ当然に思える領域だ。合意している二人の成人が、自分たちの関係は生物学的に避けられなかったと証明する必要はない。もっと世間に受け入れられる相手を検討したが、十分には惹かれなかったという証拠を、誰かに提出する義務もない。
異性愛者はいつも相手を選んでいる。ときには選び方を間違える。よく知らない相手と結婚し、好きでもない相手と暮らし、愛している人と別れ、外からは理解できない関係を築く。部外者がその関係を魅力的だと思わないことは、介入する大した理由にはならないと、私たちは理解している。
自分の相手を醜いと思う人や、二人の暮らしを退屈だと思う人全員に、結婚を正当化しなければならないと想像してみてほしい。その意見は苛立たしくも、面白くも、ときには聞く価値のあるものでもありうる。それでも、その関係を持つ権利とは何の関係もない。
ところが同性のカップルになると、この区別は驚くほどすぐに失われる。部外者の居心地の悪さが、二人の側で解決すべき問題になる。説明しろ。自然なことだと示せ。変えられないと示せ。放っておく理由をくれ。
その理由は、どの問いが投げかけられるよりも前からあったと思う。
権利と特権
『新スタートレック』の「The Drumhead」に、ピカードがアーロン・サティ判事の警告を思い出す場面がある。「最初の輪によって、鎖はつくられる」。最初に否定される自由と、その損害が自由を奪われた当人の外にまで及ぶことを語っている。
この場面が好きなのは、権利の構造をこれほど明瞭に捉えているからだ。保護される人に個人的な思い入れがなくても、保護は重要である。むしろそのときこそ、自分が保護を信じているのか、ただ今の受益者が好きなのかがわかる。
人は、現在享受している特権を権利と混同しているように見えることが多い。
期待どおりの生活をしていれば、誰も干渉しない。関係は立派に見える。家族はこの土地に属している。話し方、服装、信仰のあり方は、特に疑いを招かない。その自由を何が保障しているのか、一度も問わずにかなり自由に暮らせるかもしれない。
だが、誰も反対しないから放っておかれることと、反対されても放っておかれる権利があることは、別の話だ。
特権は、あなたが誰か、誰を知っているか、与える側があなたを認めているかに依存する。ずっと享受してきたなら、永久のものに感じるかもしれない。権利は、その承認とは無関係に要求できるものを与える。好意を失ったとき、区別が見えてくる。
権利は侵害されうるし、その保護が機能しないこともある。だが、十分な数の人が支持したからといって、侵害が正当になるわけではない。特権は与えられたのと同じ条件で取り上げられる。権利の場合、保護を取り上げること自体に正当な理由が必要になる。
「選択ではない」という擁護は、この区別を解決しないままにする。特定の人を許す理由は示しても、その人生を裁く権限はほぼそのまま残す。誰かを少し優しくすることはできるかもしれない。だが、なぜその優しさが必要であるべきではないのかは、あまり説明しない。
金では保障できないもの
権利を中心に組み立てられた社会は、特権を持つ人にも提供できるものがある。財産のおかげで考える時間なら十分にあるはずの人を含め、それは見落とされがちだ。
金はプライバシー、弁護士、人脈、そしてかなりの保護を買える。困難な状況から抜け出しやすくもなる。だが、権力を行使する本人も含め、全員が守る義務を負う限界を設けることはできない。安全がその人への接近に依存するなら、その接近を保ち続けなければならない。
莫大な富を持つ人たちが政治家の歓心を買う光景を考えてみてほしい。巨額の純資産とそれに見合う自尊心を持ち、従われることに慣れた人たちが、内心では単なる政治家と見なしているかもしれない人物の機嫌に、急に気を配り始める。あるいは、ここには書けない呼び方をしているかもしれない。
ほとんど何でも買える。どうやら、お世辞をやめる余裕だけはまだない。
もちろん、有利な扱いを買っている人もいる。だが、好意を保つ必要があることは、その有利な扱いがどんな安全を与えるのかも示している。権力との関係には維持が必要だ。人が変わる。要求が変わる。昨日十分だったことが、明日には足りなくなるかもしれない。
機能する制度に支えられた権利は、個人の財産だけではつくれない最低限の安全を提供する。財産、自由、救済を求める能力は、今その時点で有力者に好かれているかどうかに依存するべきではない。
独立を求めて強迫的に富を積み上げながら、好意に依存する仕組みを支持するのは、どこか奇妙だ。最も豊かな人にさえ、ときには特権を少し減らし、権利を少し増やしたほうがいい。
経済的な議論は、個人の安全より広い。機能する社会は、暮らし、働き、投資し、何かをつくるのに適した場所だ。他人の教育、健康、安全、参加する能力は、富裕層が富を得ている経済の一部である。
うまくいかない社会の大きな取り分は、繁栄する社会の小さな取り分より価値が低いこともある。相対的な優位と絶対的な豊かさは別のものだ。求めているのが、自分の暮らしと他人の暮らしの距離を広げることではなく、よりよい暮らしなら、この区別は重要である。
どんな改革も、すべての富裕層に見返りを与えるという意味ではない。ほかの人が費用を負担するからこそ儲かる特権もある。だが、社会をよりよく機能させることは、そこで成功している人の犠牲になるはずだという想定は、驚くほど近視眼的だ。その人たちもそこに住んでいる。
規則が自分に届くとき
この混同は、対象外でいられると思っていた人に政策が及んだとき、とりわけはっきりする。
嫌いな相手に適用されると想像している間は、制限が合理的に見える。ところが大事な人に及ぶと、細部が急に重要になる。その人の事情、意図、築いてきた暮らし。規則をそこまで乱暴に適用するべきではない理由が、すべて見えてくる。
その理由は、相手が見知った顔になる前から検討する価値があった。
ある集団に対する政策を支持しながら、自分の事情はその適用範囲から守ってくれると思い込むことがある。自分は善良な市民だ。パートナーはいい人だ。自分のケースは違う。
特権が持ちこたえると期待している。
実際に違う場合もある。拙く書かれた規則は、大切な区別を消してしまう。だが、自分に及んで初めて気づくなら、支持していたものをあまり考えていなかったのだろう。
同じ習慣は、もっと個人的でない決定にも現れる。「官僚的な手続きを減らす」は、廃止される手続きが異議を申し立てる機会だったとわかるまでは聞こえがいい。権限を増やすのも、信頼できる判断をする当局を思い浮かべている間は聞こえがいい。開発も、自宅の隣に何が許可されたのかを知るまでは聞こえがいい。
どの手続きか。どんな権限か。どんな開発で、条件は何か。
何が起きるかを決めるのは、こうした問いだ。それが、その人がどちら側かという問いの後ろに追いやられるのは奇妙である。
道路はまだ修理が必要だ
日常の行政に関してはとりわけ、政治をイデオロギーに還元することが理解しがたい。
道路に修理が必要だ。どういうわけか、社会主義についての議論になる。保守派は瞬間移動するのか。その車も道路を使っているはずだ。
修理にいくらかかるのか。誰が払うのか。どの道路を先に直し、どの工事を待たせるのか。機能する道路が望ましいことには同意しても、そのすべてで意見は分かれうる。意見の相違には、それ自体で十分な内容がある。世界はこう動くはずだという受け継がれた説明同士の競争にして、何が得られるのかわからない。
マルクスは労働、所有、権力について一つの視点を示した。自由主義の思想家はほかの視点を示した。それらを検討するのは興味深く、有益でもありうる。だが、それで著者が経験したことのない条件下で、特定の世紀の特定の国を運営するための指示書になるわけではない。
慎重につくられた経済モデルでさえ、仮定に依存する。結論に頼る前に、その仮定が成り立つか確かめなければならない。政治的な教義は、有名だから、何世代もが自分をそれと結びつけてきたからという理由で、信頼性が上がるものではない。
それなのに、しばしば先に来るのはアイデンティティで、決定はその後についてくるものとされる。社会主義者、自由主義者、保守主義者である。では、その種類の人間なら住宅、交通、医療、発電所をどう考えるべきか。
なぜそこから始めるのか。その場所はすでに存在する。人、資源、制度、義務、調べられる問題がある。そこから始めればいい。
惹かれるのが雰囲気なら、『SUITS/スーツ』や『マッドメン』を見ればいい。ほかの好みに合うドラマもある。企業での野心や革命のロマンが好きでも、それは都市の運営方法を教えてくれない。
もっと穏やかな呼び名でさえ、無用に混乱を招いているように思える。進歩と伝統が相反する姿勢として提示される。鉄道を改良するには歴史ある広場を壊す必要があるかのように。その土地は価値あるものを保存し、うまく機能しないものを変えられる。どれがどちらかを決めるには、その土地を見る必要がある。
意見の相違は残る。人の利益、必要、判断は異なり、本当に衝突するものもある。行政がそれをなくすとは期待していない。全員にイデオロギー劇の役を割り振るのではなく、実際の相違に対処してほしい。
実際の決定
データセンターは問いが具体的なので、よい例になる。電力、接続、冷却が必要だ。適した場所も、そうでない場所もある。騒音や地域資源への負担、利益をほとんど受け取らない人にかかる費用をもたらす場合もある。
そうした制約は検討しなければならない。だが、開発業者の望む解決策が避けられないものになるわけではない。企業には都合がよく、地域には悪い場所もある。代案を比べる。それぞれに必要なインフラを調べる。どの費用を許容でき、誰が負担するべきか決める。
それは中身のある仕事だ。「AIに賛成」か「AIに反対」かは、ほとんど何も足さない。
騒音に異議を唱える住民は、知性の未来について立場を持つ必要がない。投資を約束する開発業者には、それでも合意の内容を説明する義務があるべきだ。何を建てるのか。許可の条件は何か。誰が利益を得るのか。約束が果たされなかったら、誰が払うのか。
その答えは、どんな政治的アイデンティティを持つべきかを教えない。その計画に意味があるかを教える。
統治をアイデンティティの表現として扱うことで、私たちは多くを失っていると思う。同じ人が、仕事には鋭く、家計には慎重で、支持する政策には奇妙なほど無関心だったりする。結果を検討する方法は知っている。自分に関わると認識したときには、いつもそうしている。
だが、社会の規則は自分に関わるものだ。必要になるとは思っていない規則も含めて。その規則を個人的な好意に依存させない制度も同じだ。富や社会的な承認は、その依存を我慢しやすくするかもしれない。なくしはしない。
私はバイセクシュアルだ。女性とだけ付き合うこともできるが、そうしたくない。それを理解しにくい人もいるだろう。私にも理解しにくい他人の関係はたくさんある。それを、その関係の側が解決しなければならない問題だと思ったことはない。
誰かを理解すれば、もっと思慮深く接するようになるかもしれない。だが、その人の人生がその人のものになるための条件であるべきではない。